VOL_2:吉岡宗重×北村直登

世界を知ること、自分を生かすこと。
すべての始まりは、学生時代だった。

Jリーグのなかでも、最高峰のクラブとして輝かしい戦歴を誇る「鹿島アントラーズ」で、
チームの強化部にて活躍している吉岡宗重さん。
大分を拠点にアーティスト活動を続け、
その実力と人気は全国区となった画家の北村直登さん。
2人はNBU日本文理大学附属高校からNBU日本文理大学まで、
サッカー部で同じ時を過ごした盟友。
そのかけがえのない時間と経験は、
強い「絆」として、今でもしっかりとつながっています。

吉岡宗重 氏

言葉、文化、国民性…サッカー留学で得たもの。

吉岡 「NBU日本文理大学附属高校に進学した大きな理由が、ブラジル留学制度があったから。僕はその1期生だったんだよね。」

北村 「僕が2期生で、お互い1年生のときの1年間をブラジルで過ごしているので、実際に高校で一緒にプレーしていたのは吉岡さんが3年生、僕が2年生のときの1年間だけでした。」

吉岡 「当時を振り返ってみれば、高校生がブラジル留学なんて、もう、行きたい!という勢いだけだよね。」

北村 「何もわからなかったから、行けたのかもしれませんね。今でこそ、どの学校も海外留学をはじめ積極的にグローバル化しているけれど、当時はまだそんな時代じゃなかった。インターネットでたくさんの情報を手に入れることもできなかったし。吉岡さん、今なら留学していたと思いますか?」

吉岡 「確かに…少し躊躇したかもしれないね。ただ、行くからにはブラジルの文化を経験したいという強い思いはあったね。ブラジルまで行って、日本と同じ環境を求めるのであれば、日本にいるのと何ら変わりはないわけで。サッカー留学をするときに父親から『サッカーが上手くなるためだけに留学させるんじゃない。言葉や文化を覚えて帰ってくることに意味があるんだぞ』と言われて。そのひとことが大きかった。留学中にポルトガル語も多少話せるようになって、その時の目的意識が今の仕事にも繋がっています。」

北村 「吉岡さんがそんな決意で留学していたとは、知りませんでした。」

吉岡 「もちろん当時は、今のような仕事に就きたいなんて、そこまでは考えていなかったけどね。でも、プレイヤーとして一流になりたい一方で、もしダメだったらどうしようという考えもどこか頭の片隅にあって…。」

北村 「そうだったんですね。高校、大学と一緒にプレーしましたが、吉岡さんは先輩のなかでもすごく話しやすかった。チーム内でレギュラーを続けるのは本当にすごいことだと尊敬していました。」

吉岡 「試合に出たいという気持ちが人一倍強かっただけだよ。そもそも、自分はサッカーが上手いとは思っていなかったから、いつも試合に出るためにはどうしなければならないのかって本気で考えてた。」

北村 「それは分かる気がします。僕は、画家と呼ばれようがアーティストと呼ばれようが、実はどうでも良いんですけど…、サッカーであれば、試合に出ることができればどこでもいいという感覚かもしれません。なぜなら〈絵を描くこと〉だけをシンプルに追求したいので、そのために最善を尽くすことを考えているだけです。」

吉岡 「要はサッカーに限らず、目的をハッキリさせることが大切なんだと思う。そのために、やるべきことを考えて、実行する。鹿島アントラーズというチームにいて感じるのは、選手・スタッフの勝利への執着心が凄い。勝利という目的から逆算して、組織の一体感を大事にしつつ、自分のプレースタイルを発揮する事を突き詰めて実行している。誰にも負けないものを持ち続けるために、才能がある選手は人一倍努力もしているってことだよ。」

吉岡宗重 氏

「今」をつくった、
大学時代のチャレンジスピリット。

北村 「僕の場合は、大学の途中でサッカーは辞めたんですけど、そのとき初めて『プロになれなかったら、一体何をするんだろう?』と。それまでの努力を無駄にしない生き方をしなければならないと思ったから、サッカーに取り組んでいたころのマインドで絵と向き合うことにシフトしました。」

吉岡 「サッカーのマインドで?」

北村 「たとえば絵描きにはスランプってあるんですけど、これをサッカーに置き換えてみると…描けないというのは、試合に出ているのに『今日はボールを蹴る気分じゃないから』と言ってグラウンドから出て行くようなものですよね? 絵の場合、スランプだって、アイデアを考えたり、手は動くんだから、あきらめずに最後まで描いてみるべきだと思うんです。」

吉岡 「なるほどね。僕は大学4年間、サッカーを続けたわけだけど、やはりプロになるのは難しいと感じていて。ただ、サッカーに携わる仕事がしたいという思いはあったから何ができるかを考えて…まずは教員免許を取得した。大学4年になって、NBUにブラジル人の監督が来たことも大きな転機だったかな。実は僕、ブラジルから帰国してからも、ずっとポルトガル語を勉強していたんだよね。監督やスタッフとポルトガル語で喋ることができたから、卒業するときに『指導者としてNBUに残ってくれないか』という話をいただいて。結局NBUには5年間在籍。それをきっかけにトリニータにフロントスタッフとして入り、Jリーグの世界に足を踏み入れることができたわけなんだよね。言葉はもちろん、ブラジルという国の文化や国民性を理解できるという武器が、今につながってると思う。」

北村 「僕も、ブラジル留学のときに肌で感じた、彼らの自由さ、大人も子どもと同じように夢中になって楽しむスタイルなど、今の仕事や作品に活かせていると思います。」

吉岡 「今、サッカーの仕事に携われているのは、高校でブラジルに留学し、大学で人間力のベースをつくるために努力した結果なのかなと思ってる。それがあったからこそ、卒業後も学ぶことをやめなかったし。NBUのコーチになったときも、トリニータにフロントスタッフとして入ったときも、新しいことを勉強して吸収して。そうして培ったものが、今、鹿島アントラーズでも活かされている。そう考えると、努力を積み重ねることは大事。とくに最近は、自分に何が求められているのかを常に考えているね。組織の中にいて、人がやりたがらない仕事も率先してやってきたことがノウハウや経験に繋がってきているし。組織にいる以上は、自分がやりたいことだけやっても認めてもらえないから、やりたくないこともやってこそ、やりたい仕事をやらせて貰えるようになると思うんだ。」

北村 「学生の頃から、吉岡さんはずっとそうでしたよね。怪我で試合に出場できないときでも、ベンチで裏方の仕事をされていましたから。そういうところ、すごいですよね。本当に、コツコツ積み重ねることでしか、道は拓けない。」

吉岡 「それは北村くんだって同じでしょう。サッカーの道から絵画の世界に進むなんて、普通できない。そのチャレンジ精神がすごいというか。まったく経験したことのない世界に踏み出す勇気がすごいと思う。たぶん世の中の人はみんな、北村くんがサッカーをやめて、絵を描き始めてすぐに成功したと思っているんだろうけど、チャレンジして、努力を重ねて、挫折もしながら今の姿があるというプロセスを知らないと思う。」

北村直登 氏

経験を重ねたからこそ分かる「グローカリスト」の資質。

北村 「上手くいかないことなんてたくさんある。だからとにかく手当たり次第、いろんなことにチャレンジしていましたね。話は変わりますが、今の若者って、自分で計画立てて海外旅行に行くことが減ってるらしいんですよ。インターネットで調べれば、動画で海外の様子が見れるから…。」

吉岡 「疑似体験はできるんだよね。僕は卒業してからひとりでスペインに行ってきたよ。それも、ホテルは取らずに飛行機のチケットだけ持って。言葉が喋れないから、ホテルに着いてすぐに案内所に向かったら、紹介された部屋に暖房がなかったから驚いた。真冬なのに!」

北村 「僕はスペインからフィレンツェまで列車の旅をしたことがあります。寝台列車で知らない外国人と36時間も一緒に寝泊まりして、いい経験になりましたね。」

吉岡 「その経験を、今の若者や学生たちにも味わって欲しいと思う。最近は、日本で暮らしていても海外の人やことに触れる機会が多いし、自分から発信することも容易になってきているよね。日本では当たり前のことも、海外の人から見たら『それはすごいな』と感じてもらえたりする。その『何か』を見つけられる能力というか、感じ取るアンテナを持っている人、かたちにできる人が日本でも海外でも活躍できるんじゃないかな。」

北村 「そうですね。僕は県外、海外に目を向けながら、大分という地方都市で活動しています。東京よりも、大分をステージにするほうが上手くいくと思っているし…。僕自身、都会とは違う空気感を持っていることが、作品にも反映されていると感じます。世界的な視野を持ちながら、自分たちが暮らす地域で活動する…それがNBUが50周年を機に掲げる“グローカリスト”なのかも知れませんね。」

PROFILE

鹿島アントラーズ
強化部 強化担当課長
吉岡 宗重 Muneshige Yoshioka
 1978年大分県生まれ、茨城県在住。日本文理大学附属高等学校入学後、サッカー部ブラジル留学制度1期生として1年間渡伯。サッカーとともに、ブラジルの文化・言葉を学ぶ。高校卒業後は日本文理大学へ入学し、サッカー部のレギュラーとして活躍。卒業後、監督・コーチの推薦で指導者の道へ進む。日本文理大学に5年間在籍し、その中で培われた確かな手腕を買われ、大分トリニータへ入団。現在は活躍の場を鹿島アントラーズへと移し、戦略の鍵を握る強化部にてチーム運営に携わる。
アーティスト・画家 北村 直登 Naoto Kitamura
 1979年福岡県生まれ、大分県在住。日本文理大学附属高等学校に在校時のブラジルへのサッカー留学などを経て日本文理大学へ入学。大学卒業後は、路上で自作の絵を売る毎日を経て画家になったというユニークな経歴を持つ。エネルギー溢れる色使いとダイナミックなタッチが特徴のアーティスト。フジテレビ系ドラマ「昼顔」の美術提供で注目を集め、大分県内のみに留まらず、国内外で個展やワークショップを行うなど精力的な活動をみせる。